喜界島の「喜」とは何か?

辻 信行(離島研究者)

喜界島
喜界島

一度見たら忘れられない島の名がある。黒島、猿島、軍艦島…。その中にはきっと、喜界島も入っている。初めてこの島の名を目にしたら、こう思うだろう。喜界島の「喜」とは何か?わたしたちはその謎を解くために、遙かなる島の歴史を旅してみることにしたい。
喜界島が初めて文献に登場するのは、西暦998年。『日本紀略』の長徳4年9月14日条に、北九州の大宰府から、暴れ回っている南蛮人(奄美大島の島民とされる)を捕まえるよう命令を受けたと書かれている。ここでは喜界島が「貴駕島」と表記され、これ以来、さまざまな文献に登場するようになる。しかしその表記のされかたはマチマチで、「貴海島」「喜界島」「鬼界島」などのバリエーションが見受けられる。大まかな変化を見ると、12世紀末に「貴」「喜」といったプラスイメージの漢字から、「鬼」というマイナスイメージの漢字へと変化している。これは一体なぜだろうか。この二つ目の謎を解くためには、そもそも「貴」「喜」と呼ばれていたのはなぜか、喜界島の古代史へとダイブしてみなければならない。

皆既日食
皆既日食

喜界島で観測された皆既日食(2009年7月22日)いまから遡ること6000年前の縄文時代前期、喜界島に定住民が発生した。島内の遺跡から条痕文土器が出土したことが、それを物語っている。縄文時代後期には島の各所に集落が形成された。弥生時代になっても、喜界島の土壌は稲作に適さなかったため、島民は海産物の狩猟採集生活をしていたようだ。実際、ブダイやハリセンボン、ハタなどの魚類や、ヤコウガイ、シャコガイなどの大型貝が多数出土している。このうちヤコウガイは、工芸品や装飾品として使われる螺鈿の材料となるため、後にヤマトから珍重された。とくに喜界島でとれるヤコウガイは、海水がやや冷涼なため真珠層の形成に時間がかかり、美しい光沢を帯びるそうだ。

螺鈿細工
螺鈿細工

中世の喜界島は、南島路の寄港地となっていたのではないかと考えられる。島の中央の台地に位置する城久遺跡群は、高貴な人々が暮らしていたことを物語っている。城久遺跡群から出土する越州窯青磁は、平安時代に秘色とされて貴族が重宝し、博多遺跡群から出土した物とよく似ていている。だからここに、大宰府の出先機関が置かれていたとする説もある。遺跡以外からも青磁がみつかっており、たとえば小野津地区の八幡神社には、豊凶を占う「五つのカメ」として伝えられている。また、城久遺跡群と周辺の二つの遺跡からは、11世紀後半~12世紀における製鉄の形跡も見つかっていて、島民がここで製鉄し、輸出していたことが伺えるのだ。

城久遺跡群
城久遺跡群

これらの特徴は、喜界島の周辺の島々では見られない。喜界島が良質なヤコウガイの一大産地であったこと、島の地形が天然の城壁を形作り、中央の台地に高貴な身分の人々が住み着いたことが、古代中世における喜界島の「喜」であったと考えられる。これでわたしたちは一つ目の謎を解いたことになる。
では二つ目の謎、なぜ「喜」が「鬼」に変わったのかを考えてゆこう。その時期にあたる12世紀後半は、喜界島が島流しの名所となった時期と対応する。1177年、俊寛がこの島に流されたのは有名だ。このとき一緒に平康頼・丹羽成経の二人も流刑となっているが、俊寛だけが放免されず、生涯をこの島で過ごすことになる。この後も、佐々木定綱や文観、護良親王といった都人が配流されている。また、1165年には源為朝が漂着して雁股の泉が湧き、八幡神社を創建したとする伝説や、1202年、平資盛が率いる壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党約200人が上陸し、城を築いた(現在の「平家の森」)とされている。

俊寛僧都座像
俊寛僧都座像

源為朝や平資盛が、実際に来島したとする確かな証拠はない。また、来島していないとする確かな証拠もない。ただ、喜界島で最も古い神社は源氏系の八幡神社であり、平家の落人たちが築いたとされる城があったことは確かだ。つまり、源氏・平氏に由来する外部勢力に影響を受けたことは事実なのだ。これらのことから「鬼」という漢字には、この島が流刑に処されたり、都落ちした人々がやってくる辺境の地としてのイメージを託されたものと考えられる。

雁股の泉
雁股の泉

ここでわたしたちには、また新たな謎が生まれる。なぜ、現在の島の名は「喜界島」となっているのだろう。現在の喜界島の「喜」とは何だろうか。わたしたちは再び中世に戻って、謎解きの旅を続けることにしよう。
源平両勢力の影響を受け、都の文化を受容しながら独立を保っていた中世の喜界島。この時代のことを奄美世と呼ぶ。しかし1450年頃から喜界島は琉球王国の攻撃を受け始め、長年にわたる抵抗むなしく、1466年、琉球王国の尚徳王により統治された。那覇世のはじまりだ。この時代、喜界島出身のノロ(巫)たちが琉球へと渡り、活躍することとなった。琉球にとって喜界島は、聖なる島であったのだ。

那覇の首里城
那覇の首里城

江戸時代がはじまってまもなくの1609年、薩摩藩は喜界島・奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島を直轄地とした。当時、南蛮貿易によって様々な菓子が輸入され、次第に砂糖が珍重されるようになる。喜界島が薩摩藩に直轄された翌年、日本で初めてとなる製糖が、隣の奄美大島で始められた。ときを経ずして喜界島にも製糖技術が伝えられる。喜界島が砂糖の重要な生産地として定着していた1645年、薩摩藩の代官記に「喜界島」という表記があり、これが現在の島の名につながっている。さらに薩摩藩は、木曽川の治水工事によって発生した財政難を、大島三島(奄美大島・喜界島・徳之島)の砂糖専売の利益で補てんした。喜界島はサトウキビの生育にこの上ない土壌で、できあがった黒糖は、周辺の島々と比べても上品な甘さが特徴だ。薩摩藩にとって、このような喜界島の存在が「喜」であったのだ。

黒糖の製造工程
黒糖の製造工程

しかしそのことは、必ずしも島民にとっての「喜」ではなかった。製糖は厳格な制度のもとでおこなわれ、生産者による私的な売買は一切禁じられた。これに違反すると、死罪とするという法律も定められたのだ。廃藩置県で鹿児島県に編入されると、喜界島商社が鹿児島に新設され、一手に売買されるようになった。旧幕藩体制となんら変わらない搾取がおこなわれたのだ。これに業を煮やした島民たちは、1889年6月25日、のちに喜界島凶徒聚衆事件と呼ばれる大規模な抗議をおこなった。多数の負傷者を出したが、結果的に逮捕された島民全員の無罪が言いわたされ、喜界島に貸し付けをおこなっていた商社が手を引くこととなった。
製糖による苦難の次は、戦争の災禍が待ち受けていた。第二次世界大戦中、喜界島には特攻隊の飛行場が設営された。出陣式で島の娘たちは、特攻隊の青年に花を贈った。テンニンギク。橙と朱の鮮やかな多弁花で、喜界島に咲く野花だ。いつしか人々はこの花を「特攻花」と呼ぶようになった。喜界空港近くの群生地にはいまでも看板が立ち、その由縁を伝えている。

特攻花
特攻花

特攻隊の飛行場が置かれたことで、喜界島は米軍の熾烈な空襲をうけた。喜界島が空襲された日数は、1945年2月11日~8月15日までの196日のうちで、106日。空襲に使用された飛行機は延べ718機。喜界島が被った損害は、島内の総戸数3931戸のうち、約半数の1910戸が焼失または倒壊し、島民の犠牲は死者119人、負傷者30人に及んでいる。
1946年2月2日、喜界島を含む奄美諸島は、日本政府から行政分離されてアメリカの統治下に置かれた。それから5年後の1951年、北緯29度以北のトカラ列島が日本復帰を果たすと、奄美諸島の日本復帰運動が活性化し、奄美大島日本復帰協議会が発足、日米両政府に対して繰り返し復帰を陳情した。その甲斐あって、1953年8月8日、訪日したJ・F・ダレス米国務長官は、北緯27度以北の奄美諸島を日本に復帰させる方針を明らかにした。そして同年12月28日、喜界島を含む奄美諸島は、念願の日本復帰を果たしたのだ。

手久津久集落のガジュマル巨木
手久津久集落のガジュマル巨木

このように喜界島は、奄美世、那覇世、大和世、鹿児島県世、アメリカ世を経て、鹿児島県下に編入されるという、実に目まぐるしい統治変化を経験している。
喜界島の「喜」は、ヤマトや幕府にとって利益をもたらすという意味であった。島の歴史を旅すると、支配と搾取の陰で闘ってきた島民たちの存在を知る。しかし、いまわたしたちが実際に喜界島を訪れてみると、運命を翻弄された過酷な歴史とは裏腹に、島の人々の明るくて穏やかな笑顔に出会う。21世紀に入って喜界島で進められているオーガニックアイランド計画は、島の人々をさらなる「喜」で満たし、それはきっと日本中、世界中へと波及する「喜」となることだろう。

百之台からの眺め
百之台からの眺め